樋口一葉「いやだ!」と云ふ【田中優子】

樋口一葉「いやだ!」と云ふ


書籍名 樋口一葉「いやだ!」と云ふ
著者名 田中優子
出版社 集英社新書(208p)
発刊日 2004.7.21
希望小売価格 720円+税
書評日等 -
樋口一葉「いやだ!」と云ふ

樋口一葉をまともに読んだことがない。僕たちの時代にはまだ「教養」というものが生きていたから、学生時代、このくらいは読んでおかなくてはと思って「たけくらべ」に挑戦したことがある。そして見事に挫折した。擬古文に手こずったこともあるけれど、それ以上に、この小説のなにが面白いのか分からなかった。

いまも当時も、樋口一葉は漱石や鴎外によって完成される近代小説を切り開いた先駆者の一人として評価されていた。そういう眼から見ると、一葉の小説には近代以前の混ざりものが多すぎ、書き方においても、そこに描かれる人物像からも、「近代」がくっきりとは立ち上がってこないように感じた。

もちろん論理的にそう考えたのではなく、ただ、あまり面白くないなあと放り出してしまったわけだけれど、要するに漱石以後の小説を読みなれた眼から見て、発展途上の小説(と考えること自体、「近代主義」に犯されている証拠だが)として不満を抱いたのだと思う。

「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」を読まなければ、そんな印象を抱いたまま一葉を読まずに済ませてしまったろう。でも、幸いこの本に巡りあって、文字通り目から鱗が落ちた。

ここで田中優子は、樋口一葉は近代の側からではなく、江戸や古典の側から見るときにこそ豊かな世界が開け、その面白さを味わうことができると言っている。僕はそのように言われた瞬間に、視界が開けて一葉の世界が見通せるような気がした。

この本は、「たけくらべ」から「十三夜」まで一葉の代表作五編を、近代からではなく、平安や江戸の眼で読み解いたもの。たとえば「たけくらべ」は、さまざまな点で近代小説とは別の方法で書かれているという。

学校帰りの美登里が同級生の信如に、道端に美しい花が咲いているのを見て枝を折ってくれるよう頼む。信如は不機嫌に手近の枝を折って美登里に「投つけるやうに」して去るのだが、この「枝を折る」という行為には、古今和歌集や源氏物語以来の、「自分の心の秘密を託し、伝える」という含意が隠されている。心を直に表現したり行動に移したりするのでなく、包み隠すことによって「言葉で伝わらない香りや肌触りや気配を」伝えるのである。

またこの小説では、布も平安以来の伝統に従って「心を託し意味を指し示すアイテム」として使われている。

信如がころんで羽織を汚してしまったのを見て、美登里は「紅の絹はんけち」を手渡す。赤い絹のハンケチは14歳の子供が持つにふさわしいものではなく、それは彼女の「豊かだが、いかがわしい境遇」を示し、また美登里の無意識の蠱惑をも表現している。信如が怖れを感じ、周囲の少年たちが信如を冷やかすのも、その蠱惑を感じ取っているからなのだ。

別のシーン。激しい雨のなか、美登里は鼻緒を切った人を助けようと「友仙ちりめんの切れ端」をつかんで外に飛び出す。それが信如だと悟った瞬間、美登里は胸に動悸を感じて立ちすくんでしまい、格子の間から切れ端を投げ出す。信如は信如で冷や汗が脇の下を流れ、地面に投げ出されて濡れた紅い布(美登里の魂)を拾うことができない。「一葉はここで、性を描くことなく性を描き、恋を口にすることなく恋を描いた」

「たけくらべ」にはまた、音があふれている。田中はこの小説を、「うきうきとしたリズムに満ち、音楽性に富んだミュージカルのような世界」だという。少年たちが歌う「仁和賀(にわか)」祭りの歌。芸者が歌う端唄。はやり唄の「厄介節」。女太夫が歌う新内。たいていは三味線を伴奏に歌われる。

「この作品はまぎれもなく近代小説だが、しかしその世界は吉原から漏れてくる江戸の音を背景に、江戸の雰囲気を描いたものだ。つまり江戸から読まなければ、「たけくらべ」を、ほんとうには味わうことができないのである」

こんなふうに「たけくらべ」を江戸の側から読み解いてきた田中優子は、最後にまた僕たちの思いこみを逆転してみせる。

姉が最高級の遊女である美登里は、やがて自身も遊女になる運命にある。この小説を語ってきた多くの論者は、美登里を「みじめ」で「あわれ」な少女として扱ってきた。でもそれは後世の、特に昭和の吉原を念頭においた誤解だと田中は言う。「たけくらべ」に描かれた吉原は、江戸から続く「豊かさと活気」に満ちた享楽的な世界であり、文化を生みだす場所であり、遊女もまた蔑視される職業ではなかった。

「「たけくらべ」は美登里の零落を描いているのではなく、美登里の出世、つまり女性にとっての「出世」をテーマにした作品なのである。「十三夜」という一葉の作品も、高級官僚の妻、という出世をテーマにしているが、一葉は、…遊女がみじめで、官僚の妻が幸せだとは考えていない。……上流社会の妻たちの窮屈な世界だろうが、吉原の享楽的な世界だろうが、「出世」には幸福はない、と見ている」

ここでは「たけくらべ」だけを紹介したけれど、他の作品に対しても、田中は過去からのまなざしを縦横に使って鮮やかな読みを披露している。

ここに、田中優子の女性ゆえに取り出すことのできた視点を見ることもできる。でも、それはあまり重要ではないと僕は思う。「恋の奥」に「捨(すて)て捨てすてぬるのちの一物(いちもつ)」を見ている一葉も、その言葉を拾いあげる田中も、男でも女でもない、人として現実と「格闘する魂」を見つめようとしているからだ。

作中の人物がしばしば発する「いやだ!」という一言は、そんな一葉の魂を象徴していると田中は言う。そしてそのように断言する田中優子の文章は、差別的(?)言辞を使えば、きりりと男っぽい。(雄)

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