FAKEな平成史【森 達也】

FAKEな平成史


書籍名 FAKEな平成史
著者名 森 達也
出版社 角川書店(264p)
発刊日 2017.09.22
希望小売価格 1,728円
書評日 2018.01.20
FAKEな平成史

森達也は1956年生まれ、1998年のオウム事件をテーマとした「A」の発表に始まり、2016年の佐村河内守を主題とした「FAKE」まで多くのドキュメンタリー作品を世に問うてきた。ただ、私が森達也の名前に接したのは、映像ドキュメンタリーではなく、書籍としての「放送禁止歌」(2000年解放出版社刊)であり、その文章からは敢えてタブーに挑戦するという印象を強く持ったと思う。

本書のタイトルにある平成とは森にとって32歳から62歳の30年間、私は41歳から71歳の30年間。この年齢差によって生じる時代認識の違いは大きい。「この平成の時代を自らのドキュメンタリー作品を振り返りながら平成という時代について考察する」という本書の狙いも、平成という時代が森の仕事の時間軸にぴったりと合致することには注視すべきだろう。

本書の構成は六つの視点から、ゲストとの対談を補助線にして現代の問題を提起している。「放送禁止歌」をベースとして「疑似民主主義国家ニッポン」を語る第一章、「ミゼット・プロレス」をベースとして「差別するニッポン人」を語る第二章、「天皇ドキュメンタリー」をベースとして「自粛と委縮」を語る第三章、「オウム事件」をベースに「組織の暴走性」を語る第四章、「よど号ハイジャック事件」をベースに「北朝鮮」を語る第五章、「TV・ジャーナリズムの変容」を語る第六章となっている。
 
1999年にフジTV系列でオンエアされたドキュメンタリーは、岡林信康の「チューリップのアップリケ」に代表される放送禁止歌をテーマにしたもの。岡林のこの歌は1969年にフォーク全盛の時代に一世を風靡した曲だが「部落差別」が想起される歌詞から放送されることがなくなった。放送業界には放送を禁止するルールとかシステムは存在しないが、「際どいテーマ」だから触れるのは止めようという意識が放送禁止歌を作りだすのだ。森は「無自覚の自粛」という言葉を使ってその経緯を説明する。

 「今の日本のテレビを見ていると、とにかくタブーが多すぎて触れるべきことに全然触れていないという印象ばかりです。……どの国でも政治家はメディアに圧力をかけることは珍しいことではない。だからこそ、問われるべきは圧力を受けたメディアが『その力に対してどのように対峙するか』なのだ」

敢えて言えば「自発的隷従」といった感覚で放送禁止歌は「ここから先は危険」を示すための自分で立てた標識である。こうした場や空気に従い、個を抑制することによって出現する社会は体制や仕組は民主主義国家でありながら、実態のない民主主義国家でしかないとみているのだ。

身障者への差別という観点でNHKのEテレの番組「バリアフリーバライティ(バリバラ)」のプロデューサー日比野和雄と対談している。森も「小人のプロレス」を主題としたドキュメンタリー番組を1992年フジテレビの深夜枠で制作しているが当時フジテレビから制作側に示された制約は「小人(こびと)」という言葉を使わないという一点だったという。かなりおおらかな時代である。思えばTBSの「8時だよ!! 全員集合」でも小人のプロレスラーがコントを演じていたことを思い出しながら読み進んで行くと、この件が取り上げられていた。

 「かれら(小人)の出演は数週間で終わった。それは「なぜあんな可哀想な人たちを笑いものにするのか」という抗議の電話が多くかかってきた。そうして怒る人たちは「24時間テレビ」を見ながら「障害者から勇気をもらった」とか「感動をありがとう」などと本気で言っている人たちと位相は殆ど変わらない」

突き詰めれば、感動しようが、怒ろうが、そこにある感情の根は「自分達とは見た目が違う人」がいるという認識に変わりないということだろう。一方、小人のプロレスラーたちの「自分達は笑われているんじゃない。笑わせているんだ」という発言に込められている差別される側の意識に対しての理解と尊重も重要な観点である。こうした挑戦的な番組たちが生まれてくるテレビの環境について、深夜のノンスポンサー枠であったり、視聴率をあまり気にしなくていいといいった特殊性が幸いしていることから、それは本質的な「自由」ではなく「緩い」という森の指摘は体験した者だけに見方は厳しい。

一方、全てのメディアが自粛で足並みをそろえた事象が紹介されている。それは、1988年9月19日に昭和天皇が吐血されてから、歌舞音曲を伴う行事は自粛されたことと、崩御の当日と翌日は日本中のテレビ局はすべてのCMを完全に自粛した。森に言わせれば、自発的に権威に隷従する封建制が現実となった。

オウム事件を振り返るために有田芳生との対談から組織の暴走について議論を深めている。森は「A」「A2」とオウムに関するドキュメンタリーを撮っているのだが、オウム事件の責任という観点で「麻原」個人と「オウム真理教」という宗教団体・組織を峻別して語っている。それは、第二次大戦の責任はA級戦犯だけにあるのではなく、政治家も新聞も戦争への流れを引き留められず、結果的に後押しをしていたという事実を踏まえながら、安倍総理の南スーダンからの自衛隊撤収の発言とメディアの報道について警鐘を鳴らしている。

「安倍さんは『死者が出たら、辞任します』と言った。総理大臣としての自分の地位と隊員の命を等価にしてしまっている。それは、指導者として一番やってはいけないことだ。……最高責任者が安易に辞任など口にするなと思うのだが、そうした反論がもっと沸き上がるべきではないか」

こうした、社会や組織の負のメカニズムに個はどう立ち向かうべきかを語りつつ、森はジャーナリズムこそ負のメカニズムに対峙すべき立場にあるとしている。アナウンサーの長野智子との対談では、彼女は自らをジャーナリストとは言わない。それは、テレビはチームで作り上げるもので、自分の思いやこだわりを貫くことは難しいというところにその根拠を示している。また、放送事業者が上場することによりコンプライアンスはどんどん厳しくなって、ジャーナリズムとしての世間への異議申し立てではなく、世間のお手本にならなければならない立場に自らを追い込んで行ったという見方はジャーナリズムの有り方を考える上でも重要な点だろう。行きつくところは、組織ではなく、一人称単数としての自分を主語にして自らを晒し続ける覚悟がジャーナリストには必要だと語っているのだが、読者には次の様に語り掛けている。

「一極集中と付和雷同……風に身を任せれば確かに楽でも、その結果として大きな間違いをひとは起こす。……そのために考える。歴史を噛みしめる。世界を俯瞰する過去を足場にする。そして、前に進む」

森は本書で一定の結論を読者に求めている様には思えない。ただ、ジャーナリズムの問題として矮小化せずに、本書を読者一人一人が「考える」トリガー(起爆剤)にしてほしいという意図を静かに主張している。(内池正名)

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