証言 沖縄スパイ戦史【三上智恵】

証言 沖縄スパイ戦史


書籍名 証言 沖縄スパイ戦史
著者名 三上智恵
出版社 集英社新書(752p)
発刊日 2020.02.22
希望小売価格 1,870円
書評日 2020.09.18
証言 沖縄スパイ戦史

1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍と日本軍との戦闘で、日本軍の主力部隊が南へ南へと追い詰められ、集団自決など住民を巻きこんだ凄惨な戦いが本島南部で繰り広げられたことはよく知られている。

でも、島の北部でどんな戦闘があったのかは、あまり知られていない。僕自身も知らなかった。もちろん北部にも日本軍はいたが、それだけでなく陸軍中野学校から40人以上の将校・下士官が送り込まれ、徴兵前の島の少年を組織して「秘密戦」と呼ばれるゲリラ戦を展開した。この本は、少年兵として戦った人たちなど30人以上に話を聞いてまとめた、その戦いの記録だ。そこには米軍との戦闘だけでなく、スパイの疑いをかけられて殺された住民の話など、生々しい証言がいくつも出てくる。

著者の三上はジャーナリストであると同時にドキュメンタリー映画の監督で、2018年に『沖縄スパイ戦史』(大矢英代と共同監督)を完成させた。本書の前半は、主にその映画のためのインタビューを活字化したもの。映画の完成後、それ以外の元少年兵の証言、陸軍中野学校出身の隊長の生涯、またスパイ虐殺の被害者側・加害者側双方の証言を追加取材して700ページ以上の大部な新書にまとめあげた。

「少年ゲリラ兵たちの証言」と題された第1章では21人の元少年兵の体験が語られる。1944年9月、中野学校出身の村上治夫中尉と岩波壽中尉が沖縄に降り立ち、島の中・北部で「護郷隊」と呼ばれるゲリラ軍を組織しはじめた。召集されたのは、1000人ほどの地元の15、6歳の少年たち。スパイ・テロ・ゲリラ戦・白兵戦の技術を教え込まれ、米軍が上陸した後、後方を攪乱する戦闘の前線に放り込まれた。

軍服を脱ぎ住民のふりをして米軍が占領した飛行場にもぐりこんで捕虜になり、燃料のドラム缶の数や位置を報告して、後に爆破する。松並木や橋をダイナマイトで爆破し、米軍の前進を妨害する(米軍はあっという間にブルドーザーや仮鉄橋で修復した)。夜間に停めてある戦車を爆破する(失敗)。やがて護郷隊が陣取る山に敗走する日本軍も合流し、組織としてまとまった部隊から戦闘意欲を失った敗残兵まで入り乱れての戦いになった。

「僕は監視役だから全部見えるわけだよ。……もう戦意喪失してる兵隊もいて、下士官たちが、貴様らーとぶんなぐって戦わせようとしたけど、動けないものも多かった。彼らが飯盒を並べて飯を炊こうとして煙を出すもんだから、迫撃砲がど真ん中に飛んできて、バーンと、30人全員吹っ飛んで、一瞬で手や足が木の枝にぶら下がってるわけ。もう地獄の風景。肉も骨も、恩納岳は木が生い茂ってて深いから外に飛び散らないでみんな木に引っかかるわけ。見たくなくても見てしまう。人間は首絞められて死んだ方がずっとまし。恩納岳の神様も、あれは……きつかったと思うよ。あんなの見た人はやっぱりおかしくなるよ」

こんな戦闘を経験した多くの元少年兵が、戦後はPTSDに苛まれた。その一人は「兵隊幽霊」と呼ばれ、座敷牢に閉じ込められた。また日本軍にとって軍隊内の苛めはどこまでもついてまわる組織悪だが、護郷隊も例外ではなかった。中国戦線から帰った在郷軍人が下士官として少年たちを訓練したが、その一部にはひどい苛めをしたり、飢えのなかで食料を独占したりする者がいた。彼は戦死したことになっているが、戦いの最中に後ろから撃たれたといい、「殺した人も島の人、殺された人も島の人」と元少年兵は語る。さらに、退却するときに負傷して動けない兵を殺したという話も多くの少年兵が語っている。

第2章では、護郷隊を率いた村上治夫中尉と岩波壽中尉の生涯が追跡される。ふたりとも沖縄へ来たとき23歳。村上は親分肌、岩波は沈思黙考型と対照的だが部下からの信頼は厚く、元少年兵たちから彼らの悪口はまったく聞こえてこない。そのひとり、村上治夫は大阪府出身。満洲での兵役を経て陸軍中野学校に入り、卒業直後に沖縄に派遣された。任務は護郷隊の結成・教育と住民の掌握。住民を掌握する要は、軍に協力させ、裏切り者を出さないこと。「住民を使った秘密戦を学んだ彼らが持ち込んだ構図、つまりスパイは常に周りから入り込むという恐怖を煽り、警戒させること。軍の機密を知ってしまった住民が米軍に投降すればこれも通敵=スパイ行為とみなすという価値観と密告の奨励」が村々にいきわたった。村上は第一護郷隊隊長として遊撃戦を戦ったが、途中から戦意を失った3~4000人の他部隊の兵士が陣地になだれこみ、敗残兵と住民の「始末」が村上を悩ませた。

やがて敗戦。村上が籠った山を下り米軍に投降したのはポツダム宣言受諾から5カ月後、1946年1月だった。戦後、元少年兵たちは戦死した隊員の慰霊祭を企画して村上を呼ぼうとした。村上にようやく沖縄への渡航許可が下りたのは1955年。それから2002年までの47年間、村上は一度も休むことなく沖縄に通いつづけ、元少年兵たちと戦死者を慰霊し、酒を飲み、カチャーシーを踊った。

村上と岩波が戦った「秘密戦」は沖縄だけのことではなかった。本土決戦に際しては全国に護郷隊と同じ「国土防衛隊」を組織し、陸軍中野学校の出身者を中心にゲリラ戦を展開する。そのための教育機関として中野学校に「宇治分校」がつくられた。第3章では、ここに学んだ岐阜の「国土防衛隊」の元教官と元少年兵の証言が収められている。沖縄で起きたことは、戦争がつづけば日本全国で起きるはずの事態だった。

本書の後半には、スパイ容疑で多くの住民が殺された事件と、住民を虐殺した3人の将校・下士官を巡る証言が収められている。

沖縄戦の末期、米軍は着々と北上してくる。村を逃げ日本軍とともに山へ避難していた住民のなかには、飢えて山を下りて生活しはじめる者、米軍に投降して収容所に収容される者も多かった。敗残兵が多く統制のきかない軍隊、米軍地域と日本軍地域を行き来する住民、飢餓と混乱のなかで軍民ともに疑心暗鬼にとらわれ、「スパイリスト」がつくられる。「命がけで食糧さがして、生きるために、生活するために精いっぱいなのに。早く山を下りた人はスパイなんだと、勝手に決めつけているわけさ。日本軍が、自分が生きるために」

この住民虐殺は、沖縄戦で聞き取り調査がいちばんむずかしい分野だと三上は言う。「踏み込んで言えば『手を下した日本軍』の中に、沖縄県民が含まれていることもあるからである。密告した人と、殺した人、殺された人の遺族が戦後も同じ集落に住み続けなければならない地域もあった」。それだけに証言をする人たちの口も重い。スパイリストに載せられた当時18歳の女性は、著者が四回目に会って話を聞いたとき、ようやく自分が夜、寝ているときに兵隊に踏み込まれ殺されかけたことを語った。

第5章では、住民を虐殺したことがはっきりしている3人の軍人について記述される。3人の戦後についてだけ紹介しよう。少なくとも7人の住民を殺した陸軍曹長は、復員後、遠縁の家に婿養子に入って製材所を立ち上げて成功した。家族には戦争で沖縄に行ったことを一言も言わず、70歳で亡くなった。

スパイとして本人だけでなくその家族も斬殺した海軍大尉は、記録では行方不明とも戦死とも書かれている。だが著者の調べでは、敗戦後も生き延び山に潜伏していたところを米軍に発見され収容された。けれども、その後の消息は同じ部隊の誰もが語らず、「行方不明」のまま封印されている。

スパイ殺害を自ら手帳に記録した海軍少尉は、山に籠っているところを米軍に発見され射殺された。その地区の村人は、村人と親しかった少尉ら12人を丁重に埋葬した。戦後、少尉の両親が沖縄を訪れて手厚く葬られていることに感激し、村人との交流がはじまった。両親は慰霊碑を建て、事あるごとに地区に寄付し、毎年、命日には必ず慰霊碑を訪れた。両親が亡くなってからも、少尉の妹やその子供と地区との交流は今もつづいているという。

陸軍中野学校に国内ゲリラ戦のための学校があったことからわかるように、軍は本土決戦のために「国内遊撃戦の参考」などのマニュアルを作成していた。ここでもスパイと疑われる者には「断乎たる処置」を取ると明記されている。別のマニュアルには民間人を「義勇隊」として組織することや、義勇隊が「不逞の徒」に「適切なる処置」をほどこすことも規定されている。

「もし半年でも終戦が遅れてこの教令のもとに『本土決戦』が始まっていたら、敵の攻撃による被害とは別に地域社会の中に不逞分子の処置が横行し、しかも軍人すら介入しない処刑も起きうる状況にあった。沖縄戦以上の悲劇が各地で起きていたことは明らか」と著者は記す。これは遠い歴史の彼方のことでも、沖縄という地域だけに起こった出来事でもない。日本国中どこでも起きる可能性があったし、もしかしたらこれからも起きるかもしれない。そういうものとして本書を読んだ。

三上が話を聞いた元少年兵はいま、90歳前後。戦後ずっと、仲間うち以外では口を閉ざしてきた。その重い口を開けた著者の誠実と粘りがこの貴重な記録を生み出した。(山崎幸雄)

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