盗みは人のためならず【劉震雲】

盗みは人のためならず


書籍名 盗みは人のためならず
著者名 劉震雲
出版社 彩流社(424p)
発刊日 2015.11.20
希望小売価格 3,024円
書評日 2016.02.18
盗みは人のためならず

高層ビルの建設が進む北京を舞台に政府高官からコソ泥まで色んな人間が偶然の糸で絡み合うこの小説を読んで、中国にとって共産主義の70年ってなんだったんだろうと考えてしまった。

共産党を名乗る以上、建前としてでも資産階級の打倒とか貧富の格差の是正とかの「理想」があったはずだけど、そんな「理想」は結局人々の心になんの痕跡も残さなかったんじゃないか。そんなふうに思わせる、なんでもあり、しっちゃかめっちゃかの世界。

政府高官と秘書、成り上がりの不動産ディベロッパーとその妻、建設現場の監督とコック、泥棒の元締めのアヒル商、偽酒づくり、私立探偵、登場人物のほとんどが大なり小なり泥棒である。いや、盗みを働かない正直者も出てくる。でも建設現場の賄を任された彼女は、「正直者を使うより、泥棒を使うほうがマシとは」と、監督からあっさり首を切られてしまう。

主人公は劉躍進(リュウ・ユエジン)。北京の高層ビル建築現場の炊事場で働くコックである。劉は街角の雑踏でウェストポーチを盗られてしまう。その中には、故郷の河南省で偽酒づくりをしている男が劉に対して書いた6万元(約100万円)の借用書が入っていた。劉の妻を奪ったその男は、「6年間騒がなければ慰謝料として6万元払う」とその借用書を書いた。その日暮らしの劉にとって、借用書は人生最大の希望だった。

買い出しの材料費をちょろまかす程度の泥棒にすぎない劉は、金も家も女もなく、小心者で、他人にコケにされても自分で言い訳してやりすごし、金になるかどうかわからない借用書を頼りに日々を過ごしている。言ってみれば現代の阿Qのような存在。その劉を狂言回しに泥棒たちがつながってくる。

劉のウェストポーチを盗ったのは青アザの楊と呼ばれる泥棒。被害に遭った劉は青アザを探し回るが、青アザは食堂で会った女に声をかけられ、しけこんだところを美人局の3人組にウェストポーチを奪われてしまう。青アザはまた、縄張りの外で盗みを働いて泥棒の頭目・曹兄貴に捕まり、高級別荘地区に盗みに入ることを強いられる。ところが盗みに入った別荘で青アザは人に見つかりハンドバッグひとつだけつかんで逃げだす。逃げ出したところで青アザを尾行していた劉と鉢合わせし、ハンドバッグを放り投げて劉から逃れる。劉はハンドバッグを拾ったが、金目のものはなく、USBが入っていただけ。劉にはUSBが何なのか見当もつかない。

青アザが盗みに入ったのは、劉が働く不動産ディベロッパーの社長・厳の別宅だった。厳は政府高官の賈に賄賂をつかませることで会社を大きくしたが、賄賂を渡す現場を録画してUSBに記録していた。厳は不倫して妻と離婚騒ぎを起こしており、妻が厳のUSBを盗んでハンドバッグに入れていたのだった。USBの中身が公になれば厳も政府高官の賈も身の破滅。厳も賈もそれぞれ私立探偵(実はひとりは内偵中の刑事)を雇ってUSBを探させる。劉は劉で、青アザと借用書の入ったウェストポーチを探しつづける……。

こんな具合に、次から次へと大物小物の泥棒たちがつながってゆく。お互いを探し求める劉と青アザはやがて顔を合わせ、騙し合いをしながらも厳や賈に対しては2人で組んだりもする。

「鞄を盗まれ、鞄を拾った。盗まれた鞄のほうが拾った鞄よりも価値があると思い、鞄の中身を漁っていた時ですら、青アザはろくでもない鞄を盗みやがってと罵ったものだが、そのUSBとやらがあるおかげで、ゴマを失くして西瓜を拾ったようなものであるらしかった。羊を失くして馬を拾ったようなものだった。まさに、『禍福はあざなえる縄のごとし』である」

もっとも劉にとっては、賈高官が八千万元(約14億円)の値をつけたUSBより金になるかならぬかわからぬ借用書のほうが大事で、相変わらずウェストポーチの行方にこだわっている。借用書が、未練の残る元妻ともう一度つながる可能性を夢見させてくれるからだろうか。そんなふうに、どこか憎めない劉のほかにも似たような男や女たちがいる。泥棒といっても、賈高官や厳社長を除けばどこにでもいる庶民のことだ。

泥棒の頭目、曹兄貴はなかなかの読書家で『史記』や『三国志』を愛読し、ことあるごとに「孔子は言ったものさ。女子と小人は養いがたし」などとつぶやく。

劉が一方的に惚れて通う理髪店の店長・馬はバツイチの女。店は若い女店員の売春で稼いでいる。劉は馬の「心をかきむしられる」ハスキーなかすれ声と、胸は小さいが柳のように細い腰(元妻も細い腰だった)に惹かれている。だいたいこの小説では「太りたいんだけど、いい物を食べられなくて」と厳が謙遜するように、太っているのは裕福である証。「デブ」は貧乏人である劉たちの会話でことあるごとに嫉まれ馬鹿にされる。

読んでいて面白かったのは、北京という大都市でも同郷の人間同士がつるんでそれぞれ小さな社会をつくっていること。そんな伝統的なつながりが今もしっかり生きていて、それが物語を動かすカギになっている。

劉は河南の出身。同郷のスリである韓と金の貸し借りをしつつつるむ。韓は新疆人の泥棒の縄張りで盗みを働いて殴られ、金を請求される。曹兄貴は河北省出身で、同郷のコソ泥たちのいざこざを仲裁しているうちに頭目になった。楊は山西省の出で、同郷の甘がやっている羊のスープの店で美人局に遭った。美人局は全員が甘粛省の出身でグループを組んでいる。今も人々はそのようにして同郷のつながりを頼りに暮らしているんだろう。

もうひとつ興味深かったのは、登場人物たちに法を犯しているという意識がまったくないこと。たとえば日本のミステリーや警察小説では、著者にとっても読者にとっても法を犯すことを巡ってドラマが生まれる。法を犯すことはわれわれにとっては、非日常の領域に足を踏み入れることを意味する。それだけ法の意識が内面化されているともいえる。それに対してこの小説では、泥棒することが飯を食ったり仕事したりするのと同じ次元で描かれている。賈高官から劉にいたるまで、盗みが見つかったらやばいと思っているだけで、法を犯すことの倫理的葛藤はまったくない。著者もそのように描いていない。

そこでまたはじめに述べた感想がやってくる。中国にとって、共産主義の70年はなんだったんだろう、と。高層ビルが林立している以外、阿Qの世界と何が変わっているんだろう。建国から70年を経て、一巡りしてまた同じ場所に戻ったんじゃなかろうか。

そんなことを感じさせる、ユーモアと毒をしこたま孕んだ小説だった。(山崎幸雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索