のりたまと煙突【星野博美】

のりたまと煙突


書籍名 のりたまと煙突
著者名 星野博美
出版社 文藝春秋(328p)
発刊日 2006.5.15
希望小売価格 1762円+税
書評日等 -
のりたまと煙突

「のりたまと煙突」という懐かしい語感の、でもつながりがよくわからない言葉を重ねたタイトルから、人はどんな内容の本を想像するんだろう。

「のりたま」と言えば、ふつうはのり巻きと玉子の寿司か、あるいは弁当。ひょっとしたらふりかけを思い浮かべる人もいるかもしれない。いずれにしろ食べ物を連想させるわけで、それが「煙突」とどう関係するの?

「のりたま」のヒントは、カバーに描かれた3匹の子猫が親猫にまとわりついているイラストにあった。本文を読んでいくと、これは食べものではなく「のり」「たま」と著者が名づけた猫の名前だったことが分かってくる。

「煙突」とは、猫が大好きで野良猫にご飯をあげているおばあさんの家から眺める銭湯の煙突。著者が飼っている「くま」がおばあさんの家に出入りして別宅のようにしている(「もうくまにとっては、おばあさんの家が本宅で、私の家が別宅なのかもしれない」)。ここから見える煙突と畑は著者のお気に入りなのだが、あることを境に著者はこの風景を見るのを避けるようになる。

あることとは、おばあさんの死。実際、実家の大家族の記憶や、猫との暮らし、ファミレスやコーヒー・ショップに通う一人暮らしの日常の小さな裂け目から、優しいけれど人の世の底の底まで射抜くような目でみつめたこのエッセーは、なんとまあ「死」に満ちていることだろう。

祖父と祖母の死。漁師や工場を経営していた親戚たちの死。学生時代の友人の死。そしてなにより、著者がかかわった9匹の猫たちの死。この本のなかで人の死と猫の死とは、著者の親しいものたちとして何の区別もされていない。星野はそれら9匹の猫の名を墓碑銘を刻むように書き記している。

「一匹目は、しろの友達のくろ、の娘のまお、が生んだふみ。まおがアパートの押入れの中で出産してしまい、下に落ちて死んでしまった。アパートの庭に埋めた。

二匹目は、しろの夫でころの父親であるのら。アパートの縁側で死んでいた。アパートの庭に埋めた。

三匹目は、のりたまの母親が二回目に生んだみお、が生んだ、二代目ふみ。アパートの庭に埋めた」

「八匹目は、しろ。
そして九匹目がたまだった。
私はまるで、猫の墓掘人だった」

「猫の墓掘人」とはまた穏やかでない表現だけど、でもここにある死は、星野にとって日々の視界から排除される忌むべきものとしてあるのではない。そうではなく、あらゆる生きものに例外なく訪れるものとして受容し、いつまでも抱きしめ記憶を反芻するものとして、死はある。

そのとき、死者や死んだ猫たちは星野博美の記憶のなかで生きはじめている。記憶であるゆえに自分の独占物となった家族・知人や猫たちの懐かしさと、現実には彼らが存在していない喪失感が入り交じって、この本の独特の肌触りをつくりあげている。

……なんて理屈をこねるまでもなく、ここで語られているエピソードのひとつひとつが、まるで短編小説でも読むように切実でおもしろい。

「赤おにと青おに」は、工場を経営していた両親に代わって幼い星野姉妹の面倒を見た祖父母に教わった遊びに触れたエッセー。祖父は姉妹に花札と野球拳、それに丁半のサイコロ遊び、「ありていにいえば、お座敷遊びと博打」を教えた。

「子供だから、自分が暮らす世界が普通だと思っている。その頃私は、すべての子供は家で花札をして遊んでいるものだと信じていた。どうもそうではないらしいと知ったのは、小学校で林間学校に行った時のことだ。男の子たちがトランプをやろうといいだした。「花札ないの?」と聞き返した時、彼らは何をいわれているのかわからないといった表情をした。/「そんなの、持ってないよ」/それから私は「花札ないの?」という質問はしないようになった」

「学校にも上がらない子供が昼間っからざぶとんに向かって立て膝をつき、「青たん」とか「猪鹿蝶」とか叫んでいる」姿を想像すると、思わず微笑んでしまう。評者は著者より2世代ほど上の団塊に属しているけれど、この本を読んで世代的な違和感を感じなかったのは、著者の育ったそういう環境があったのかと合点がいった。また評者も星野と同じように工場を遊び場に育ったことも関係しているかもしれない。

幼い星野は、花札で遊びながら「地面だけじゃさびしいから月が欲しいな」とか、「ここに鹿がいたらもっときれいだ」と考える。「世間の子供たちは、花札のあの美しさを知らないんだ。なんてかわいそうに。そんな時は、じいちゃんの孫に生まれてよかったと思った」

こういうユーモア感覚と懐かしさ。それが「のりたまと煙突」の魅力の表側。裏側の魅力は、先にも触れた「死」の感触である。

「ことりとり」と題された項は、「母親のしろが死んでから、ゆきに変化が起きた。長い間封印していた狩猟を再開したのである」という文章で始まる。ゆきは、次々に小鳥を狩っては著者にほめられたくて死骸を持ってくる。

「生後間もなく人間と一緒に暮らし始めたゆきは、空腹に耐えかねて小動物を捕獲するような生活を送ったことはない。つまりゆきにとって狩猟は、まったくもって快楽なのだった」

「十一年飼っている猫が、しかも人間でいえばもう還暦を過ぎた老猫が、いまだに野性を失わない、これは飼い主としてはある意味誇らしい。世の中には洋服を着せられ、ままごとの相手にされた犬が五万といて、ぶくぶくに太り、怖がって外に一歩もでようとしない猫が多い昨今、ゆきはそんな猫ではない」

彼女はまたしても小すずめを捕まえてきて、著者が目を離した一瞬の隙に、まだ生きている小鳥に最後の一撃を加えてしまう。

「動かなくなった子すずめをてのひらにのせたまま、私はゆきのところへ行った。しかし動かないものにはまったくそそられないらしく、彼女はもはや何の興味も示さなかった。それが余計に猫の残酷さを物語っていた。/「ゆき、えらいね。でももうやめようね」/そして庭に、八つ目の小鳥の墓を掘った」

評者は星野博美を大宅壮一ノンフィクション賞を受けた書き手である以前に、写真家として知っていた。「華南体感」「ホンコンフラワー」という、さりげないけれど皮膚にじわっと沁みてくる作品を撮る写真家としての実力は、ここではただ1点、挿入された真っ白い「しろ」の肖像として見ることができる。(雄)

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