内モンゴル紛争【楊 海英】

内モンゴル紛争


書籍名 内モンゴル紛争
著者名 楊 海英
出版社 ちくま新書(224p)
発刊日 2021.01.10
希望小売価格 880円
書評日 2021.05.16
内モンゴル紛争

本書のタイトルである「内モンゴル紛争」という言葉から、何を思い浮かべるだろうか。中国の民主化や少数民族問題をめぐって香港や新疆ウイグル、あるいはチベットのニュースに接することはあっても、中国国内に暮らすモンゴル人についての情報はほとんど入ってこない。新聞の外報面に小さく報道されることがあるのかもしれないが、大方の人には何のイメージも浮かばないだろう。

2020年6月、内モンゴル自治区で秋の新学期からモンゴル語教育を縮小し、中国語教育を大幅に増やすことが通達された。従来、小学校ではモンゴル語と中国語が併用されていたが、道徳の授業を中国語で行い、中学高校ではモンゴル語以外の授業をすべて中国語で行うという内容だった。これに対し多くのモンゴル人は母語が失われると反発し、自治区の各地で抗議デモが起きた。子供たちは授業をボイコットし、自殺して抗議する教員や公務員も出たが、170人以上が逮捕され、2週間ほどで鎮圧されたという。

著者の楊海英は内モンゴル自治区オルドス高原生まれのモンゴル人。日本語と文化人類学を学び、現在は静岡大学で教えている。この本には「危機の民族地政学」とサブタイトルがつけられ、著者が提唱する「民族地政学」の視点から内(南)モンゴルの現在が読み解かれている。この本は歴史的な記述ではないけれど、頭の整理のため興味を惹かれたところを時間軸に沿って並べてみよう。モンゴル人はいま、モンゴル国、中国、ロシア(ブリヤート自治共和国など)に分かれて暮らしているが、そうなった理由については日本も大きく関係してくる。

内モンゴルは地政学的に見れば内陸アジア、あるいは中央ユーラシアの一員と位置づけられる。内陸アジアあるいは中央ユーラシアとは、東は満洲平原からモンゴル高原を通り、西の黒海沿岸とトルコのアナトリア平原まで、ユーラシア大陸の多くを占める地域をいう。この地には古くからいろんな遊牧民族、6世紀にはテュルク(突厥)が興り、キタイ(契丹)が興り、さらにチンギス・ハーンのモンゴルが興って中央ユーラシアを支配した。現在もテュルク・モンゴル語を話すこの地の遊牧民はチンギス・ハーンの子孫であるとの誇りをもち、共通した文化と文明を持っている。

17世紀に満洲から清朝が興ってモンゴル人はその支配下に入った。長距離の移動を伴う遊牧は禁止され、定住化が進んだ。そうしたモンゴル人社会の停滞にとどめを刺す二つの出来事が起こった。ひとつはモンゴル高原南西部を襲ったイスラム系回民の蜂起。反乱を鎮圧する力を持たない清朝は曽国藩ら漢人軍閥に鎮圧を任せてその膨張を容認する。長城のすぐ北に暮らしていた著者の一族も回民に追われて北へ避難したという。その後には、やはり回民に追われた漢人が定住するようになった。いまひとつの出来事は金丹道の反乱。金丹道は漢人の秘密結社で、満洲人とモンゴル人を暴力で追い出そうとした。その結果、内モンゴル東部は漢人が住む農耕地となった。金丹道の反乱は中国の視点では「満洲清朝に対する貧しい農民の蜂起」だが、著者は「漢人の秘密結社がモンゴル人を追い出して草原を占領しようとした民族間紛争」と断ずる。

19世紀末、モンゴル高原ではモンゴル人対漢人、漢人対回民、清朝対西欧列強という三つ巴の対立が渦巻いていた。そこへ登場するのがロシアと日本。ロシアはユーラシア大陸を南下し、新興の大日本帝国と衝突した。内モンゴル東部のモンゴル人は日本側につき、馬隊を結成して日本軍とともに戦った。一方、外モンゴルのモンゴル人はロシア軍の一員となり、やはり騎兵として戦った。

日露戦争の結果、内モンゴル東部は日本の勢力圏に組み込まれる。ゴビ草原以北(外モンゴル)のモンゴル高原はロシアの勢力圏となった。その後、満洲国が成立し、内モンゴルのモンゴル人は満洲国のなかで独自の騎馬軍団をもち、将来の独立建国を夢見た。「日本の力で中華民国からの独立が可能だ、とモンゴル人は理解したからである」(このあたりの事情は日蒙混血青年を主人公にした安彦良和の傑作『虹色のトロツキー』にもうかがえる)。ゴビ草原以北のモンゴル人はロシアの支援を受けて独立した。「新旧二つの帝国の出現により、南北モンゴルの分断が一層決定的となったのである」と著者は言う。

1945年、内モンゴルと満洲国はソ連とモンゴル人民共和国の連合軍によって解放された。著者の父もモンゴル軍の将校を暖かく迎え、新しい国づくりのために昼夜働いたという。しかし現実には米英ソによるヤルタ協定でゴビ草原以南のモンゴルを中国に引き渡すことが決まっていた。「当事者不在の形で、他人によって民族の分断と国土喪失が決定されたのである」。日本軍の侵略に由来する戦後の民族分断は朝鮮半島だけでなく、モンゴルでもあったことは覚えておこう。

中華人民共和国成立後もモンゴル人の苦難は続いた。人民公社が成立して、内モンゴルには漢人の移民が押し寄せた。草原は一面の農耕地となったが、無理な干拓のためにそれらの地は砂漠化が進んだ。1960年代の文化大革命では、二つの「原罪」があるとして多くのモンゴル人が犠牲になった。「原罪」のひとつは、満洲国時代に対日協力したこと。もうひとつは、解放に際しモンゴル人民共和国との統一合併を求めたこと。著者の調べによると、このとき34万人が逮捕され、2万8000人が殺害されている。このことは著者の『墓標なき草原』(岩波書店、第14回司馬遼太郎賞)に詳しい。

現在では内モンゴルに多くの工業都市が建設され、鉄鋼業やレアアースの産地となっている。著者の一家が暮らしていた草原でもガス田が発見されて掘削され、たくさんの家畜がガス田の垂れ流す汚水を飲んで死んでいった。2008年、著者の両親は140年暮らした草原を離れフフホト市に移り住んだ。漢人の入植は続き、今ではモンゴル人の8倍以上になっているという。モンゴル人は自治区内でも少数派になった。漢人は資金力に物をいわせ草原の使用権を買い取って広大な農場を経営し、モンゴル人が安い労働力として働いている。

話をユーラシア世界に戻せば、ソ連が崩壊したことによって中央ユーラシアのテュルク系諸民族は独立することになった。「ユーラシア世界で、自主独立権を喪失し、代々住み慣れた草原を他人に奪われたのは、内モンゴルのモンゴル人と東トルキスタンのウイグル人、それに世界の屋根に暮らすチベット人だけとなったのである」

著者はこの中央ユーラシアの未来について、二つの視点を提供している。一つは、モンゴル人の遊牧民としての広大なネットワーク。現在、モンゴル人が暮らすのはモンゴル国を中心に、南は中国の内モンゴル自治区、北はロシアのブリヤート自治共和国(シベリア東部)、カルムイク自治共和国(カスピ海北西岸)にまたがる。国家を超えるこうしたネットワークは、現実性や具体性はともかく、ユーラシアを横断する「大モンゴル国再建の思想」ともつながってくる。

いまひとつは、「チベット仏教文化圏」。チベット仏教は本家チベットだけでなく、かつてモンゴルや清朝がチベット仏教を受容した結果として、モンゴル国、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区の一部、旧満洲、シベリア南部に広がっている。信者数は3000万人ほどだが地域的な広がりが大きく、民族問題が先鋭化している地域でもある。中国がチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマの動向に神経質なのは、「チベット仏教文化圏は、分離独立につながる危険な民族地政学圏にあたる」からでもある。

こうやって内モンゴル自治区がたどった道をおさらいして、モンゴルとモンゴル人について知っていることがあまりに少ないのに我ながら驚く。それは大方の日本人も同じだろう。「内モンゴル」「外モンゴル」という呼び方自体(本書では「南モンゴル」「北モンゴル」と併用)、これは中国から見た表現であり、日本人は漢籍や中国を通してモンゴルを見てきたのだと著者は指摘している。後書きには「旧植民地の人びとが何を考え、どんな状況下にあるのかを宗主国の市民に伝えようとして、本書は書かれた」とある。そして「内モンゴル人は過去も現在も、そして将来も決して『中華民族の一員』ではない」と結ばれる。

強烈な民族意識と、それを地球規模で俯瞰してみせる姿勢に貫かれた一書。モンゴルやモンゴル人といえば、今もシルクロードとかチンギス・ハーンとか満洲の広野とか、自らの夢やロマンを託す対象であることがつづいているけれど、そうではなくリアルな眼で裸の現実を見ることを教えてくれる。それが著者の言うように旧宗主国の市民としての義務でもあるだろう。(山崎幸雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索