沖縄アンダーグラウンド【藤井誠二】

沖縄アンダーグラウンド


書籍名 沖縄アンダーグラウンド
著者名 藤井誠二
出版社 講談社(352p)
発刊日 2018.09.04
希望小売価格 2,160円
書評日 2018.10.22
沖縄アンダーグラウンド

書店で新刊書を眺めていると、あるひとつのキーワードから次々に同系列の本がアンテナに引っかかってくることがある。今年の夏のキーワードは「沖縄」だった。

きっかけは岸政彦『はじめての沖縄』(7月にブック・ナビで紹介)を読んだこと。岸の本は以前に『断片的なものの社会学』を読んでいて、徹底した聞き取り調査と柔軟な思考に、若い研究者(実はそう若くないのだが)の書くものとして久しぶりに興奮した。同時に岸が沖縄に通い本土と異なる沖縄の戦後史について聞き取り調査を長年つづけていることを知った。そんなところから次にアンテナに引っかかってきたのが、沖縄の戦後史をエンタテインメント小説に仕立てた真藤順丈『宝島』だった(8月にブック・ナビで紹介)。

ところで、浦和に須原屋という本屋がある。江戸時代の版元として有名な須原屋の系統を継ぐ店で、この街でいちばん大きな地元書店。なくなっては困る大切な店なので、本や雑誌はできるだけここで買うことにしている。先日、新刊の棚を眺めていたら、ある本の帯に岸政彦が「人びとが生きた街の、誕生から消滅の物語」という推薦文を寄せているのが目に飛び込んできた。それが本書、『沖縄アンダーグラウンド』。「売春街を生きた者たち」のサブタイトルがついている。著者の藤井誠二は、少年犯罪や犯罪被害者について著書を何冊も持つノンフィクション・ライターだ。

この本で扱われているのは、「特飲街」と呼ばれる売春地域。特殊飲食店街を略した言葉で、もともと本土で戦後、売春防止法が施行されるまであった売春街(赤線)のことを指す。敗戦後、GHQによって人身売買を伴う公娼制度が廃止され、その代わりに女性を飲食店で働く従業員とし、従業員と客の「自由恋愛」というかたちで半ば公然と売買春がおこなわれたのが特飲街だった。

売春防止法が施工されたのは1958年だから、戦後生まれの僕たちはもちろん特飲街を知らない。でも20代、30代で足しげく通った新宿ゴールデン街は、赤線ではないがかつての青線(非公認の特飲街)の建物がそのまま使われていた。1階はほぼカウンターだけ。僕らが通ったころは薄い壁で仕切られていたが、奥の狭い階段を上がると2階に小部屋がある。その後、1980年前後に大阪に転勤したら地元の人間に飛田新地を案内され、現役の特飲街(「料亭」)として営業していたのにびっくりした覚えがある(現在も現役であるらしい)。

どうやら特飲街というのは地元住民と行政と警察、そして当事者(経営者と従業員)の間に暗黙の合意があり、その上で成り立つ場所らしい。沖縄の場合には、そこにもうひとつの要素が加わる。米軍だ。

戦後、沖縄は占領した米軍(アメリカ民政府)による統治下におかれた。そこでは米軍兵士による沖縄女性に対する性犯罪が頻発した。1945年12月からの半年間だけで、レイプとレイプ未遂で逮捕された米軍人・軍属は30人にのぼる。レイプは今も被害者から届け出がないことが多いから、実数はまったく分からない。戸締りのない沖縄の民家に米兵が土足で踏み込み、主婦や娘がレイプされた例が多数あったという。

その一方、凄惨な地上戦が戦われた沖縄では、夫を失い家や土地を奪われた戦争未亡人のあいだで、家族を養うため米兵相手の売春で金をかせぐしかない人たちがいた。GHQも建前は売春を禁止したが、売春業者は一般住宅地でも公然と営業していた。

1949年、沖縄の警察署長会議で、米兵の性犯罪の防波堤として米軍慰安施設の建設が議論された。一定地域だけを売春地帯として黙認し、その外での売春は取り締まる。それによって風紀と住民の「安全」を守る。こうして民政府、政治家、警察、住民が合意して、嘉手納基地にほど近い越来村(現在の沖縄市)八重島に最初の特飲街が生まれた(このとき、人民党・瀬長亀次郎だけは人権の立場から絶対反対)。

著者の藤井誠二がはじめて沖縄の特飲街、宜野湾市の真栄原(まえはら)新町に足を踏み入れたのは20年以上前。社会派ライターとして「平和と反戦の島」を取材する旅だったが、偶然乗ったタクシー運転手に「沖縄の別の顔も見せてあげましょう」と言われ、連れていかれたのがこの町だった。普天間基地に隣接する真栄原新町は暗い住宅地の一角に忽然と現れる。「ちょんの間」と呼ばれる性風俗店が密集した「妖しい光を放つ空間」で、藤井は「魅入られたように一人で街の中を歩いた」。

その後、件のタクシー運転手と再会し、彼の導きで沖縄の特飲街を歩きまわり、店の経営者や女性たちと言葉を交わすようになった。当時、県内の特飲街は住民と行政と警察の「浄化作戦」(皮肉なことに、かつてこの三者の協力で街は生まれたのだが)によって次々になくなり、やがて真栄原新町も店を閉めるところが増えた。2010年を境に、かつての特飲街はゴーストタウンになっていく。

「この地における生の痕跡を拾い集めてみよう」と考えた藤井は、かつて特飲街で働いた女性たち、今も働いている女性たち、経営者たち、「浄化作戦」を繰り広げる警察や住民たち、さらにはかつて特飲街の女性をテーマに映画や小説を発表した人たちに話を聞いてまわる。それぞれがそれぞれの立場で語る特飲街の歴史から、戦後沖縄の「もうひとつの顔」が見えてくる。

売春をしている女性には地元出身者もいる。彼女らのなかには借金を重ねたり、商売に失敗したり、ねずみ講で騙された者も多い。彼女らはたいてい子供を抱え、門中(父系の血縁集団)から切れ、血縁から見放されている。地元だけでなく宮古・八重山の離島や奄美出身の女性、本土からヤクザに騙されて連れてこられた女性もいる。

藤井は、87歳になるある女性から受け取った「自分史」の文面を書き写している。「私はコザのAサインバーで売春をしていました。家が貧しかったから、始めました。復帰後は吉原や真栄原新町など特飲街を転々として、今ではある特飲街の中にあるアパートで一人暮らしをしています。結婚したことはないが、子供は三人います。皆父親が違い、黒人兵一人と白人兵との男の子です。……生きていくために売春することの何が悪いかと思ってました」。「生きていくために売春することの何が悪い」「売春する女性が戦後の沖縄を支えた」──同じような言葉を、藤井は以後、何度も聞くことになる。

当初は米兵を客にした特飲街だったが、やがて米軍がAサイン制度(衛生基準・建築基準をクリアした店にのみ出す営業許可)を始めると米兵の足が遠のき、沖縄人を相手に営業するようになる。復帰後は本土からの観光客が商売の柱になった。

本土の観光客が来たのは特飲街だけではない。那覇には琉球王朝時代からつづく辻遊郭があった。戦後も風俗街として再興し、本土復帰後はソープランドやデートクラブという名の売春がおこなわれていた。バブル時代には、那覇空港に着いた大手旅行会社のツアーや企業の団体旅行に勧誘や迎えの斡旋業者が集まったという。かつて台湾や韓国で、また東南アジアの都市で繰り広げられたのと同じ光景が、沖縄でも繰り返されていたわけだ。そこに本土人の沖縄に対する植民地的扱いを感じてしまうのは僕だけだろうか。

もっとも藤井はその事実を書き記すだけで、本土対沖縄という図式に回収されもするそれ以上の批判をしない。売春をした人間、させた人間、ひとりひとりのそれぞれに異なる事情を丹念に聞きまわって記録している。

売春していた女性からその過去を聞きだすのは、誠意と時間を要する大変な作業のはずだ。藤井は20年かけてその作業をつづけるなかで、ある女性にインタビューを受けるのを承諾した理由を聞いたところ、「沖縄にこういう街があったことを記録しておいてほしいから」と答えた、と記している。世間的な目や倫理的判断がどうであれ、自分が生きたことの痕跡をなんらかの形で残し、他人に伝えたい、という強い思いが読む者の身に突き刺さる。(山崎幸雄)

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