もっと地雷を踏む勇気【小田嶋 隆】

もっと地雷を踏む勇気


書籍名 もっと地雷を踏む勇気
著者名 小田嶋 隆
出版社 技術評論社(280p)
発刊日 2012.09.25
希望小売価格 1,545円
書評日 2012.11.14
もっと地雷を踏む勇気

本書はWEBマガジンである「日経ビジネスオンライン」に連載されている週刊コラム「ア・ピース・オブ警句」をまとめたもの。事実関係の誤りの訂正以外は加筆していないとのことなので、もともとのWEBマガジンの読者が、あえて本書を手にすることは少ないのではないか。また、評者のように、それなりに情報化の中で生きてはいるものの紙文化にかなり依存し、どうしても紙で読む比率が高いという人も多い。違った目線でこのコラムを読む訳だから、WEB上の読者と本書の読者との間で内容の評価や売上についてどんな違いが出てくるかも興味深いところ。

毎週のコラムとなれば、文字数の制約などから舌足らずな文章が寄り集まっているのではないかと危惧しながら読み始めたが、なかなか読み応えが有り、まとまりのある文章が続き、コラムという軽さは感じない。そうか、WEBであれば文字数制約もないのかと納得する。(ちなみに評者はとある業界紙にコラムを書いているが、本文は670文字、タイトルは10文字以内とか制約が厳しく、文字数ばかりにエネルギーが殺がれることが多い)

表紙は「杉浦茂」の「猿飛佐助」が描かれている。はて何故かと思いつつ、一作目の「地雷を踏む勇気」を取り寄せてみると、「杉浦茂」の「少年児雷也」が使われていて、「児雷」と「地雷」のゴロ合わせということのようだ。まあ杉浦漫画のシュールさと荒唐無稽さが、「あえて地雷を踏む」という気合に通じると勝手に解釈してみたりした。さて、この「地雷を踏む」ということについての著者の思いとは、

「圧力が暴力を伴った威圧として発動されるようなケースは滅多にない。圧力は通常真綿で首を絞めるような、絶妙な『面倒くささ』として立ちはだかる。特定の話題の周辺が地雷原になっているということは、その話題が圧力を獲得したことを意味している。そういう場合、誰かが地雷を踏みに行かないと、議論が死ぬ。無理が通って道理が引っ込む。かくして、弾圧は成功する」

略歴を見ると、1956年生まれというから、団塊の世代から10歳ほど若いということ。55歳前後であることを考えると、一番パワーがある年頃だ。加えて、大学卒業後、食品メーカーに入社して一年で退職。小学校の事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとある。苦労人なのか、飽きっぽいのかは別として、どんな考えをする人なのか興味がそそられる。人生に流されず、反発心も強く、地雷原を見つけると踏まずに居られないということか。

取り上げられている内容は、さすがに今日的なもので、橋下大阪市長にまつわるもの、震災・原発事故もの。それ以外にもネット文化やAKB48に関するものなど、多様な領域が対象になっている。毎週のコラムともなると、瞬間的・一過性の話題を対象にしかねず、下手をすると話題に引きずられてしまいがちである。しかし、丁寧に論を進めているので、読み手にもその意図は伝わっていく。それだけに、時として議論を極端なほうに敢えて振り、議論を単純化させて論理を進めていくという手法をとる派手な論客に比較すると、著者の真面目さというか大人びた論理展開が目立つが故に、多少生ぬるいとの評価もあるかもしれない。まあ、好き嫌いの世界の範囲ではあるが。少なくとも地雷は踏みに行っていることは評価されるべきだ。

橋下大阪市長に関するコラムを拾ってみると、例の「アンケート調査」が俎上に上っている。小田嶋はこのアンケートが市民の支持は得られたとしても、市長の意図した結果にならないだろうという意味で失敗だと次のように言っている。

「思想調査によって異分子を排除するメリットと、組織のメンバー全員に踏み絵を踏ませることによって生じるデメリット(自立思考の放棄)を天秤にかけ、それでも異分子排除しようとするリーダーはパラノイアです。・・・忠誠心の低いメンバーを排除すれば強い組織が出来ると思うのは早計。・・・そういうチーム(組織)は行進には向いていても、試合には勝てない」

うまい言い方をするものだと感心しつつ読み進むと、執拗に橋下市長の政治手法について語っている。「試験に受かった人たち(官僚)を選挙で選ばれた人間(政治家)が支配するということこそ政治主導である」という橋下市長の主張について当然としつつも、こう指摘する。

「試験に通った人間を『既得権益者』と呼んで敵視することで『民衆』を糾合する政治手法は不穏当だし、・・・気味が悪い・・・古いタイプの国家主義者が好戦的な世論醸成をした手法に似ている」

橋下が目指す改革も手法・手段を適切に使わなければ意図した結果にたどり着かない。著者も大阪市の刺青を入れている職員を排除するという考え方に反対しているのではない。しかし、性急に結果を求める独裁的手法や生産効率・成果主義的手法に拠らず、多少のかったるさがあってもゆっくりやるべしというのが著者の言わんとするところで、それを民主主義の原則に立ち戻ってこう指摘する。

「民主政治というものは効率や効果よりも手続きの正しさを重視する過程のことである。この迂遠さこそが、われわれが歴史から学んだ安全弁である」

東日本震災、原発問題に対する指摘やメディアの対応など骨太のコメントがなされているが。ちょっとしたヒントというか考え方について述べているところもまた気になった。「頑張ろう福島」といったスローガンはあちこちにある。しかし、原発問題に関して言えば住民の生活の中での戦いはまだまだはてしなく続く。そう考えると、人間にはどうしても気持ちが活発な時期と不活発な時期があって、「躁」とか「鬱」というほど大げさでなくとも「気分」がついていけないときが誰にでも出てくる。極端には、人との約束をキャンセルせざるを得ないほど落ち込むこともあるだろう。しかし、そのキャンセルを「誠意」の問題として捉えるのではなく、「気分」の問題として無力になってしまうような感情の波を理解してあげることが必要だと訴えている。

「不活発な時期をいかに不活発なままでしのぎ切るのかについて書かれた本はどこの書店にいっても全然売られていない。本当は一番必要な書物であるにもかかわらず、だ。何故だろう。理由は本に書くほどのことでも無いからだ。要約すれば『無理するなよ』の6文字で足りる。しかも、このメッセージは本で読むより、声に出して言った方がよく伝わる。というわけで、3月11日は身近な人に『無理すんなよ』と言う日にしよう」

そう言われてみれば、福島に帰郷して、若い人達に対して「どこまで除染は進んだか」とか「商売はどうかとか」などと思わず質問してしまう。なかなか進捗が見えないだけに言葉にならない返事を貰うことも多い。「無理するなよ」の一言は使わせてもらうつもりだ。

「メディア総占拠の夜」と題するコラムではAKB48総選挙についてである。その現象を「なんだありゃ」の一言で表現している。小田嶋が危惧する点はAKB48がメディアの人間にとってアンタッチャブルな存在に変貌しつつあることだ。ジャニーズ事務所や吉本興業に対してのように自由にものが言えない空気になっていることである。いつの世でもアイドルは居るし、若者達は熱狂する。ビートルズしかり、キャンディーズしかりである。しかし、AKBとの本質的な違いをこう指摘して、地雷を踏んでいる。

「違いは商品の売り方である。総選挙でファンが持つ『投票権』はCDの付属品として販売されている。つまりCDの枚数分投票が出来る。・・・AKBの選挙では投票権は売買の対象であり金銭の代替物なのだ。一見キャパクラにおける指名権に似ている。でもずっと悪質である。なんだかマルチ商法の商材のようだ。・・・とはいえ、最低限『総選挙』という言葉を使うことだけは自粛すべきだ。・・・あまりに選挙制度というものを冒涜している」

本書を読み終えて、面白かったというのが本音。例えば、違法ダウンロードに関する処罰化についても鋭い指摘がされているがテクニカルライターとしての視点よりはるかに広い視野で語っているのはさすがである。「素手で戦う」論客であり、一つ一つの警句がパチパチと弾けている新鮮さが好ましい。(正)

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