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いまから280年以上も前、正徳6年(1716)に江戸時代交通法規の基本ともいうべきものが成立しました。それまでは、馬や船による交通事故で人を殺傷しても、故意にやったのでなければ処罰の対象にはなりませんでした。
しかし、交通事故が多発するようになって、事故も関係者(大八車がどをひく者)の不注意が原因で起こることがほとんどであることがわかったので、たとえ、あやまちから起こった場合でも、死傷者が出たりすれば流罪(島流し)か死罪にするという罰則が設けられました。
実際、この法規は空文ではなかったようです。享保7年(1722)に、神田のある商人がやとっていた車ひきたちが、子どもを車にひっかけて、けがをさせてしまいました。
幸い、子どもは一命をとりとめましたが、車ひきの6名は遠島(陸地から遠く離れている島へ送る刑)、その車の持ち主は罰金を命じられているという記録が残されています。この場合、子どもが死亡していれば、当然、死罪になっていました。
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