ロッコク・キッチン【川内有緒】

ロッコク・キッチン


書籍名 ロッコク・キッチン
著者名 川内有緒
出版社 講談社(304p)
発刊日 2025.11.20
希望小売価格 2,090円
書評日 2026.03.18
ロッコク・キッチン

福島県の太平洋側、いわゆる浜通りを南北に国道6号線が走っている。略称「ロッコク」である。東京を起点にして千葉県松戸市、茨城県水戸市を経由して福島県いわき市から大熊町、双葉町、相馬市を経て宮城県仙台市へと至る。江戸期でいえば水戸街道、岩城・相馬街道である。この浜通りの東京電力福島第一原発(双葉・大熊町)は2011年3月11日の震災の津波による電力停止で制御不能となり炉心溶融が発生し放射能汚染を引き起こした。多くの住民が津波の被害に加えて、この原発事故で避難を余儀なくされ故郷を離れることになった。そして15年が経ち、浜通りにも人々が徐々に戻りつつあるものの、昨年の数字では双葉町の居住者は180名(震災前は7000人)、大熊町は1100人(内700人は東電関係者)という状況。震災前に住んでいて帰還した人、復旧作業に携わる人、そして地縁はないが復興支援のため浜通りに来た人等、そうしたロッコクで生活する多様な人たちの姿を本書は描いている。

著者は母親がいわき市の出身で震災前から頻繁に訪問していたようだが、いわき市より北に行ったことは無く、2017年に初めて国道6号線の久之浜トンネルを抜け、バリケードと廃墟の続く帰還困難区域になったところで「時を止めた町」を実感したという。そんなこともあり、復興支援の一環として地域に住んでいる人たちから「食にまつわるエッセイ」を募集して、単に震災前の生活を懐かしむだけでなく、現在、浜通りに暮らす人達の生活断片を集めて地域の新しい生活史を作りたいという狙いだ。どう暮らし、何を食べて生活しているのかという視点は著者自身が言っているようにやや野次馬的ではある。それでも、徐々にエッセイは集まり、筆者たちと会ってより深く話を聞くとともに、映像にも記録したうえでプライベート・ムービーの制作も企画されている。楽しく幸せな光景だけでなく、苦渋の物語も沢山ある。そんなモザイクの断片を集めたというのが本書である。その中からいくつかを取り上げてみる。

双葉町の産業交流センターのフードコートにある「ペンギン」というカツサンド・ハンバーガー店の店主は山本敦子さん。もともとは母親が経営していたのだが、敦子さんが避難先の横浜から双葉に戻り食の店としては初めて再開した店が「ペンギン」だった。まさに挑戦者=ファーストペンギンである。著者の、なぜ誰よりも早く双葉町に戻ってきたのかという問いに、「避難当時は、どう生きるかが問題だったので、『ペンギン』をやりたいという思いは0%だった。父が経営していたガソリンスタンドを弟が双葉に戻り再開し、産業交流センターが建てられたときに弟がここで『ペンギン』 をやりたいと手を挙げてしまった。双葉の人がこの町に戻ってきて『わーっ! 懐かしい! ペンギンだ』 と言ってくれた時に、店をやっている人が知らない人では意味がない。そんな思いで・・・」と語っている。

大熊町で再開した「学び舎ゆめの森」は公立小中学校、こども園なども併設している。教育機関である。「ごちゃまぜラーニング」と称して男女問わず、町の子も移住してきた子も、障害のある子も皆ごちゃまぜになって学ぶというコンセプトを中核にしている。広い校舎の中のところどころに椅子が置かれていて、自分の居場所を作ることも出来るとか、ワクワク・ランチルームでは全員一緒に昼の食事をし、午後は校内の農園で野菜作りを学ぶという自由で柔軟な発想。あくまで、公立の学校なので文部省カイドに従いつつも、こうした自由な学びの場が2024年の時点で生徒数は39名。震災前には1500人の生徒だったが。そこに、特別聴講生として小学生と一緒に学んでいるのが大竹英子さん。震災前から20年近く大熊町に住んでいた中国出身の大竹さんは大熊町出身のご主人と結婚して26才で大熊町に来た。そして震災に遭遇するとともに、震災の一週間後にガンで闘病中だったご主人が亡くなった。大竹さんはその後も学校や公民館で中華料理の作り方を教えながら生活している。彼女を受け入れている風景は「ごちゃまぜラーニング」の神髄を見せつけている。

大熊町の夜だけ開いている本屋がある。店主の武内さんは20才半ばで祖母が住んでいたこの土地に本屋を開いた。避難生活後、福島市で大学を卒業して関西で就職したが大熊町に戻ってきたという経歴。昼間は東電関係の仕事をしながら夜6時から9時まで本屋を開けている。本を並べているのも、来てくれた人と話をするのも楽しいし、お客さんが誰も来ない日は、一人で本を読んでいるという。「人の居なくなったこの町の夜は空しいほど暗い。でも星を見るためには暗闇は必要。読書は自分に戻る時間。だから自分は『本』『読書』を売っているので『読書屋 息つぎ』という看板にしている。震災が起きて、住民が居なくなり一番寂しかったのはこの町だったのではないか。それなのに、町は変わらなければいけないと言われる。かわいそうだ。このままで良いんだよと言ってやりたい。町って家族みたいなものだから」。町と共に生きるという気持ちがひしひしと伝わってくる言葉だ。

このほか著者は浜通りで地域活動をしているインド人留学生、元東電役員、東電社員食堂の「大熊食堂」、「おれたちの伝承館」など様々な人たちと会い、その声をまとめている。先行きの不透明さや今も戻りたくても戻れない人もいるので、ポジティブな姿だけでは今の苦しみを見えなくしてしまうのではないかというジレンマと著者は立ち向かっている。そんな気持ちから「大きな負の方向を見逃さないようにしなければならない」という言葉で本書を締めくくっている。

今でも毎年3月11日には各町では警官が隊列を組んで行方不明者の遺骨捜索のため海岸に出て捜索をする。多くの集落では震災当日の津波に巻き込まれ行方不明になった人たちは多かったが、翌日に避難指示が出されたことで救援・捜索が続けられず多くの命が失われた。行方不明者が一人でも残っている限り、鎮魂の念とともに続けられるのだろう。私の3.11を振り返ってみる。父は福島市で育ち、仙台・東京で学び就職・兵役・結婚と殆ど東京で生活してきた。40才台で故郷の福島に戻り2009年10月に89才の生涯を終えた。残された母は福島で一人の生活をしていた。父の一周忌を済ませた2010年11月末に東京に呼び寄せた。3.11の3ヶ月前である。今考えれば、ラッキー以外のなにものでもない。残してきた家は3.11で屋根瓦が落ち、土台のあちこちも崩れ半壊状態になった。その後、家財や遺品の整理、家屋解体支援申請、傾いた墓石の修理など、毎月のように福島に行っていた。数年後に家の解体と除染・整地が終了してみると、福島に住んだことのない私にとって物理的な爪痕は菩提寺にある代々の墓所だけになってしまった。それでも、福島が大好きだった父が生きていたらどんな判断をし行動するだろうかを想像しながら私は福島に関する対応をしてきた。それは今も不変だ。そんな15年目の私を本書のモザイクの一角に添えながらの読書だった。(内池正名)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索