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東 浩紀著 http://www.hajou.org/infoliberalism/ 2005.10.19 |
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もともとは雑誌『中央公論』に2002年から2003年にかけて連載された「情報自由論 データの権力、暗号の論理」。東浩紀は連載に手を加えて単行本化するつもりだったが、彼自身の考えが連載当時とかなり変わったこと、その後の環境の変化が激しいことから改稿を断念し、版元の同意を得て連載時のまま著者のホームページに公開された。 情報社会と自由の関係を主題としたこの長いエッセーは、その後いろいろな場所で引用され、いつ単行本になるのかと多くの人に期待されていた。3年前に書かれたものとはいえ、そして彼自身の「思想の変化」があったとはいえ、このテーマを考えるとき、どうしても参照しなければならない刺激的な内容をもっている。 9.11以後の世界は、セキュリティーということに極端に敏感になっている。テロリストの恐怖に加えて、犯罪に対する不安。この国でも最近、小学生が殺される事件が立てつづけに起こったことから、通学路に監視カメラを設置したり、携帯やICタグで生徒の居場所を確認するなど、最新の情報技術を使って安全を確保しようとする動きが出てきている。 僕自身もかつては小さな子供を持つ身だったから、子供たちの安全を守るために何らかの対処をしなくては、と思う。ただここで注意したいのは、マスコミの注目を集める衝撃的な事件はあるにしても、小学生が殺人被害に遭った件数は1980年代以降減っているという統計があることだ。 そういう事実に目をつむったまま、恐怖と不安にかられて完璧などありえない「安全」を求めて突っ走る前に、ちょっと立ち止まって考えてみようと、この「本」を読んで思った。 東浩紀は情報インフラが張り巡らされた今の社会を「顕名社会」と名付けている。「顕名」とは「匿名」の反対語で、ひとことで言えば常に「お前は誰だ」と問いかけられる社会、逆に言えば「自分は誰々だ」と名乗ることによって初めて色々なインフラが利用できる社会のことだ。 「自分は誰々だ」と名乗る個人認証や個人の顔を識別する監視カメラは、日常生活のあらゆる場面に浸透している。携帯を使う。クレジット・カードを使う。suicaを使う。防犯カメラが設置された繁華街を歩いたり、コンビニで買い物をする。あるいはインターネットでウェブサイトを見るだけでも、相手のサーバーに自分の情報が曝されている。 「まず身分を明らかにせよ、そうすればこのポストモダン化され情報化された世界で存分に(あなたの資格に見合った範囲で)自由に振る舞って構わない、これが現代社会の基本原理である。個人情報の管理が重要な問題になるのは、この社会が、制度的にも技術的にも、『あなたはだれなのか』とつねに尋ね続けるシステムで動いているからなのだ」 近代社会は、学校や教育によって社会の規範・ルールを個人に内面化させる「規律訓練型」によって管理されていたけれど、情報化とセキュリティ化の交差するところに姿を現しつつあるこの新しい事態を東浩紀は「環境管理型」権力と呼んでいる。 環境管理型の権力は個人の内面に踏み込まないから、その限りで個人の自由は保証される。その一方、例えばインターネットで好ましくない情報を排除するフィルタリングのように、人々の目にまったく見えないところで管理が行われる。人々はそこに問題が存在することすら気づかない。そのように情報化された社会では、多様な価値観が許されることと、セキュリティのための個人認証と相互監視が同時に存在することになる。 東浩紀はこうした「環境管理型」社会の未来図を、最近、東京の新しいマンションにも現れはじめた「ゲイテッド・コミュニティ」に見ている。 「20世紀の公共空間はだれもがそこに入れる広場をモデルとしていたが、21世紀の公共空間は、入口にIDカードの読み取り装置と監視カメラを備え付けた『ゲイテッド・コミュニティ』をモデルにしつつある。たとえば、セキュリティの観点から考えると、近い将来、交通機関の多くが、利用者ひとりひとりに安全な市民としての積極的な自己証明を求めるようになることは十分に予想される。……交通機関や繁華街は、今後、だれもが利用可能な『開かれた空間』としての性質を徐々に失っていくだろう」 いまアメリカで、テロリストとの関係を疑われただけで即、法の外側に置かれてしまう状況や、性犯罪者の体内にIDチップを埋め込めなどという議論を見ていると、東の描く未来図は荒唐無稽なアンチ・ユートピアではなく、近未来にそれなりのリアリティがあるものと感じてしまう。 こうした動きに対して、市民のプライバシーや自由が侵害されるという従来の反対論は説得力を持たない、と東は言う。 「9.11の教訓とは、ざっくばらんに表現すれば、『理念や価値観について議論するのも結構だけど、まず市民の安全を確保しないと話にならないんじゃないの?』という身も蓋もないものである。これは特定のイデオロギーの敗北というより、むしろイデオロギーそのものの敗北だと捉えたほうがいいだろう。いかなる社会思想も、人間の生を前提とするかぎりにおいて、セキュリティの強化には原理的に反対できない」 実際、いま繁華街や通学路に監視カメラ設置を求めているのは市民だし、それに対する反対論が影をひそめているのは、安全のためにある程度の自由やプライバシーが侵害されても仕方ないという考えが社会に一般化しているからだろう。 それに対して市民派的な異議申し立てが有効でないとしたら(原理的にはそうかもしれないが、古い社会と新しい社会が混在する現実的な場でどう対処するかの局面では、必ずしも市民派的な異議申し立てが有効でないとは思わない)、では今の事態に対してどのような歯止めのかけ方があるのか。 東浩紀はそこで「匿名性の権利」という考えを提起している。言いかえれば「ネットワークに接続されない権利」あるいは「ネットワークから離脱し、情報発信を停止する権利」のこと。 これは、いわゆる「匿名」とは違う、と彼は言う。従来の「匿名」は、個人が積極的になにごとかを表現しようとする場面で、あえて名を明かさないことを意味している。それに対して東がいう「匿名性」とは、個人が表現者として能動的にふるまう場面ではなく、例えば電車に乗ったりコンビニで買い物したり消費者として受動的にふるまう場面で「おまえは誰だ?」という問いを拒否する権利を指している。 この「受動的な匿名性」は、「コンピュータが生活環境に埋め込まれ、人間的な活動にしろ動物的な消費にしろ、何か行為するごとに個人情報を奪ってゆく情報社会=顕名社会のインフラそのものへの懐疑につながっている」。 こういう「匿名性の権利」が、果たして行政と市民が一体になって進む監視社会化の現実に対して十分な説得力をもつのかは分からない。東自身も、これは「理念について議論している」と言っている。ただ、彼の次のような言い方からは、彼が何を言いたいのか、その発想の根にあるものが浮かび上がってくる。 「自由の感覚は、本性的に、匿名でありうることと深く結びついている。……選択肢の多様さ(消極的自由)でも、その選択を支える自己支配の感覚(積極的自由)でもなく、そもそもそのような選択を行わなくてもよいのだという直感、厄介な選択を自分に強いるすべての状況をリセットし、無名で匿名な存在に戻りたいという原初的な希求の感覚があって、それこそが、私たちがいま近づきつつある第三の自由=匿名性の自由の観念を支えているのである」 「無名で匿名的な存在に戻りたいという原初的な希求の感覚」という東の言い方はよく分かる。いま急速に進みつつある「顕名社会」に感ずる気持ち悪さ、「セキュリティ」の名のもとに何かが奪われていく感覚、その未だ言葉になっていないものを指し示し、名付けることによって抵抗の核にしていこうとする姿勢に共感する。(雄) |